私の今までの音楽活動について
亀井清一郎
幼少期
1940年3月、神戸にて出生。音楽好きの両親であったために、蓄音機から聴こえる音楽の中で夕食をとるというように、生活の中にはいつも音楽があった。母親は常に歌を口ずさんでいたし、レコードもたくさんあったので、自然と多くの歌を覚えた。小学校へ入学する前年、終戦間際の疎開先で、ある時、近所の人たちのリクエストに応えて何曲もの童謡をそらで歌ったのを聴いて驚いた、と祖母は話してくれた。
小学校入学後、高学年になってオーケストラ部に入部しアコーディオン弾いていた。学芸会などではよく独唱をしていたが、6年生の時にはNHKラジオで唱歌を独唱した。
ピアノのレッスンを受けたのもこの頃だ。中学時代はコーラス部に所属したが、これが私の合唱との最初の出会いとなった。また、その間に数度、神戸放送(現ラジオ関西)で独唱をしたことがある。
高校・大学時代の合唱活動
1955年、中学校音楽の先生の強い勧めもあり、合唱に興味を持った私は、男声合唱では日本の最高水準にある関西学院グリークラブに入るべく、関西学院高等部へ入学、早速、関西学院高等部グリークラブに入部した。入部当時、同学年のメンバーはすべて中学部出身で、彼らは中学時代グリークラブに属し男声合唱の基礎的な訓練をすでに受けてきた者達だった。高等部から入部したのは私一人、その技法や知識、特に、発声法について大きく取り残されていた。私はこの遅れを取り戻すべく、彼らが中学時代に学んだ佐藤和愛先生の門をたたき、声楽の教えを乞うた。以後、約10年間にわたり佐藤先生に師事し、これが私の声楽技術習得の基礎となった。
関西学院高等部グリークラブ在籍中のコンクールでの成績は次のとおり。
1955年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 3位
1956年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 優勝
1957年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 優勝
1958年、関西学院大学法学部へ進学と同時
に憧れの関西学院グリークラブへ入部、合唱活動を開始した。入部オーディションを受けたのが80名余り、入部を許されたのは半数の43名だった。当時の部員総数は約140名、入部当初よりレギュラー(50名)としての活動を許された。また、2回生時よりソリストとして各種演奏会でソロをする機会を与えられ、特に、黒人霊歌は好評を博した。3回生でベースのパートリーダーを務め、4回生で指揮者に選出された。指揮者の任命を受けると同時に合唱技法を林雄一郎に、指揮法を北村協一に師事した。
関西学院グリークラブ在籍中のコンクールでの成績は下記のとおり。
1958年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 優勝
1959年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 2位
1960年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 優勝
(新設)外山杯(最優秀男声合唱賞)受賞
1961年 関西合唱コンクール 優勝
全日本合唱コンクール 優勝
第2回外山杯(最優秀男声合唱賞)受賞
なお、関西学院大学卒業時には、在学中にグリークラブの活動を通じて学院に寄与したとして感謝状が授与された。
新月会指揮者としての活動
1962年、関西学院卒業と同時に、グリークラブOBによって組織されている「新月会」に指揮者として迎えられ、その後35年間、常任指揮者として活躍した。新月会は70年の歴史を持ち、全日本合唱コンクールにおいて複数回の優勝経験をもつなど、国内の最高水準の男声合唱団として知られている。定期演奏会のほか各種演奏会に出演、年間20回を超える演奏活動を行った。在籍期間中、1981年にはメンバーを率いて中国演奏旅行を実施して成功に導いた。1994年には、英国スランゴースレンで行われた世界音楽祭に出演、指揮をして民謡の部で第2位を獲得した。
対外合唱指導
大学卒業後、損害保険会社に勤務、勤務の傍ら職場合唱団の指導にあたった。指導した合唱団は下記のとおり。
同和火災合唱団
大丸神戸店合唱団
レナウン合唱団
三菱倉庫混声合唱団
大日本セルロイド合唱団
加藤産業合唱団
ソロリストとしての活動
1962年より1999年までの37年間にわたり、毎年クリスマスに演奏されるKCGHクワイヤー(関西学院高等部グリークラブ、神戸女学院高等部コーラス部およびそのOB,OGにより組織されているクワイヤー)によるメサイヤにベースのソリストとして出演した。
1967年、大丸百貨店創立100周年記念祝典において、「大丸賛歌」を独唱した。
1973年4月〜5月、ポルトガルの3都市(オポルト、コインブラ、リスボン)において15日間にわたって開催された第1回ヨーロッパ国際大学合唱祭への参加と、それに引き続きヨーロッパ演奏旅行を行った関西学院グリークラブにソリストとして同行。ポルトガル、スペイン、フランス、英国、西ドイツ、スイス、オランダの各都市で行われた演奏会でソリストとして好評を博した。
1979年9月、関西学院グリークラブ80周年記念演奏会において、畑中良輔指揮によるワーグナーのタンホイザーにソリストとして出演、「夕星の歌」を歌い好評を博した。このソロのために、声楽界の大御所、畑中良輔より個人指導を受けたことが、その後のソロ活動に大きな影響を与えた。
1986年10月、神戸オペラ協会による歌劇「フィガロの結婚」のバルトロ役で出演した。このオペラ出演の際にも、音楽監督の畑中良輔に指導を受けた。この後、同協会による「ヘンゼルとグレーテル」をはじめ数々のオペラにソリストあるいは演奏スタッフとして参加した。
1999年、関西学院グリークラブ100周年記念演奏会において、再びタンホイザー「夕星の歌」を歌った。
この他、各種演奏会においてソリストとして招かれ、多くの演奏機会を得た。
全日本合唱コンクールの審査員を務めたこと
1969年11月、東京で開催された全日本合唱連盟主催の全日本合唱コンクールに審査員として招かれ、審査を行った。
カルテット(アンサンブル)での活動
男声合唱の表現には大人数による力強く重厚で美しいハーモニーによるものと少人数による軽快で繊細なものとがある。どちらも男声合唱の持つ素晴らしい持ち味である。学生時代より大人数による合唱の魅力に浸りつつ、同時に少人数のコーラスの魅力にも取り付かれていた。それは各パート1名づつによるカルテットである。当時より最近まで数々のカルテットを組織して演奏し、多くの合唱ファンに共感を得た。
高校時代に組織したグループ「ララバイ・ムーン」は主に学内の音楽祭や行事に参加し、学外においては教会での礼拝サービスのほかチャリティーコンサートなどの奉仕活動をその目的とした。
大学時代に組織したグループは「フォー・ベルズ」。その頃、日本では男声カルテット、女声トリオといった少人数のコーラス全盛時代であり、各民間放送は競ってコンテスト形式の番組を放送していた。当時、最も人気があったのが朝日放送の「コーラス大学」という番組だった。「フォー・ベルズ」はその番組に挑戦して、最高であるドクターの称号を得た。また、歴代のドクター大会において優勝
をして、当番組における最高地位を獲得した。その後、数局の民間放送で「フォー・ベルズ・アワー」として毎日1~2曲放送をしていた。大学卒業後もカルテットを組織して活動を行っていたが、最終は1998年に組織した「ローガンズ・フォー」である。わずか2年間に4回のコンサートをもち、20回を越す演奏活動を行った。
大人数の合唱、少人数の合唱、ソロといった形式の違った音楽活動を経験することによって多面的な演奏技術を習得できた。また、対象となる演奏曲についてもあらゆるジャンルのものに幅広く取り組んだことで、解釈の多様性にも順応できる能力を身につけることができた。これは、今後の活動において、どのような対象に対しても柔軟性をもって対応するために不可欠な要素であると考えている。
KLグリークラブでの活動
2000年7月、JODCの派遣専門家として当マレーシアに着任すると同時に、KLグリークラブに加わり、指揮者として活動を行っている。同クラブは、当地に在住し、日本人クラブに所属する日本人男性20数名によって組織されている。メンバーは大学時代男声合唱を経験した人やまったく未経験な人など内容は様々である。指導をはじめて2年余り、男声合唱団として着実に成長をしている。生憎、短期赴任者が多いためにメンバーの入れ替わりが激しいが、それでも、徐々に増加して当初目標にしていた20名を突破し、新たな目標30名に向かって募集を行っている。未経験者の率が高いグループはメンバー数が重要な要素を占める。正しい発声をして全体の流れに自分の声を溶け込ませる技術の習得と感情移入のタイミングを身に付けることで音楽を生きたものとする。徹底してこの指導を行うことによって目に見えた成果が出てきた。
マレーシアの方達に合唱の楽しさを味わってほしい
マレーシアに来て以来、現地の方々の合唱を聴く機会は極めて少ない。ただ、過日、師範学校へ行った時に、学生のコーラスを聴く機会を得た。そこで、彼らに自然に身についているリズム感と音楽そのものがわれわれに持っていない素晴らしいものであることを発見して羨ましく思った。と同時に、残念ながら発声を始めとする表現の技術が未熟なために彼らの持っている素晴らしいものを充分に発揮できていないことも感じた。このマレーシアにおいて合唱を好む人たちは数多くいるであろう。おそらく素晴らしいリズム感と音楽を持った人たちが、それを表現の方法を見い出せずにいるのではないか。なんとかその方達と共に基礎的な合唱の技術を勉強して、もっと楽しめ、また、聴く人たちにより感動を与えることができればと思っている。